日記⑪で書いた通り、私はうっかり送信ミスをやらかし、Cさん(仮名)に「二股?」と疑われかけた。
正直に事情を伝えたあの夜、Cさんはこう言ってくれた。
「私たちの関係について一度ちゃんと話したいです。」
情けない失敗が、思いがけず「これから」を話し合うきっかけになった。あれから5回目のデートの約束を取り付けるまで、そう時間はかからなかった。
ただ、約束を取り付けてから当日までの数日間、私は妙に落ち着かなかった。「これから」の話をする日というのは、こんなにも緊張するものなのか。
「今日は、ちゃんとしたお店にしよう」と決めた
5回目のデートの店選びを、私は珍しく気合を入れて決めた。
日記⑨で「気取らない定食屋がいい」というCさんの好みを知ってから、普段のデートはできるだけ肩肘張らないお店を選んできた。でも今日ばかりは違う気がした。
「これから」の話をする日くらいは、少し背筋を伸ばせる場所がいい。
そう思って選んだのは、少し落ち着いた雰囲気のイタリアンだった。個室ではないが、テーブルとテーブルの間隔が広く、周りを気にせず話せそうな店だった。予約の電話をかけながら、「今日はちゃんとしたことを言うぞ」と、誰に言うでもなく自分に言い聞かせていた。
また、何時間もかけて言葉を用意した
デート前夜、私はまたやってしまった。
日記③で、初めてのお誘いの文章に3時間かけたことを思い出す。今回は文章ではなく、直接話す言葉だったが、やっていることは同じだった。
「これからも、お付き合いを前提にお会いしたいと思っています」——固すぎる。
「〇〇さんと、ちゃんと二人の関係を作っていきたいです」——「ちゃんと」って何だ、抽象的すぎる。
「他の人とは会わずに、〇〇さんだけと向き合いたいです」——これはこれで、いきなり重くないか。
53歳にもなって、告白のセリフを一人でぶつぶつ練習している。リビングの鏡の前で言葉を試しながら、我ながら何をしているんだろうと思った。それでも、練習をやめられなかった。
結局、完璧な一言は見つからないまま、当日を迎えることになった。
料理が運ばれてくる間、ずっと心臓がうるさかった
待ち合わせでCさんに会った瞬間から、私はいつもと違う自分を感じていた。
いつものデートなら、日記⑩で学んだ「相手に意識を向ける余裕」を持てていたはずだった。でも今日は、頭の片隅にずっと「これから」の話がちらついていて、正直、料理の味もあまり覚えていない。
前菜、パスタ、メイン——コース料理が進んでいく間、私は何度もタイミングを計っていた。
「今、話すべきか。いや、まだ早い。デザートの後か。」
頭の中で何度もシミュレーションしながら、外側では平静を装って世間話を続けていた。今思えば、その平静さは相当ぎこちなかったはずだ。
いよいよ切り出そうとした、その瞬間
デザートが運ばれてきて、コーヒーが出てきた。
「よし、ここだ。」
心の中でそう決めて、私はグラスに残っていた赤ワインを一口飲み、それから深く息を吸った。
「あの、Cさん。今日は、実は少し話したいことがあって……」
そこまで言った瞬間、緊張で強張った腕が、テーブルの端に置いていたワイングラスに触れた。
グラスは、ゆっくりと傾き、そして倒れた。
赤ワインが、白いテーブルクロスの上に、じわりと広がっていった。私の言葉も、そこでぴたりと止まった。
店員さんが駆け寄ってくる中、告白どころではなくなった
「あ、すみません!」
私は慌てて立ち上がり、ナプキンを何枚も掴んでテーブルの上を拭こうとした。店員さんがすぐに気づいて駆け寄ってきてくれて、「大丈夫ですか、お怪我はありませんか」とテキパキ対応してくれた。
幸い、ワインがCさんの服にかかることはなかった。ただ、テーブルクロスは真っ赤に染まり、店員さんが新しいクロスに交換してくれる間、私たちは少し離れた場所で立ったまま待つことになった。
「これから」の話をする、あの神妙な空気は、見事に消え去っていた。
隣に立つCさんの顔をちらっと見ると、口元が小刻みに震えていた。怒っているのかと思ったら——違った。
Cさんは、笑いをこらえていた。
「緊張してたんですね」の一言で、肩の力が抜けた
新しいテーブルクロスに交換され、私たちは再び席についた。
気まずい沈黙が来るかと思いきや、Cさんが先に口を開いた。
「さっき、何か言おうとしてましたよね?緊張してたんですね、珍しく」
図星をつかれて、私は何も言えずに苦笑いするしかなかった。
「実は、事前にセリフまで用意してきていて……全部忘れました」
正直に言うと、Cさんは声を出して笑った。
「そんなに気合入れなくても大丈夫ですよ。〇〇さんらしくないです」
その一言で、肩に入っていた力が、すっと抜けていくのがわかった。
用意していた言葉より、自分の言葉で話せた
崩れてしまった段取りを立て直そうとせず、私はもう一度、自分の言葉で話すことにした。
「うまく言えるか自信ないんですけど……。僕、Cさんと会うようになってから、5回目でこんなに緊張したのは初めてで。それくらい、ちゃんとしたいと思ってるということだと思います。他の方とお会いすることはもうやめて、Cさんとの関係を、真剣に育てていきたいです」
用意していた言葉より、ずっとつたなかったと思う。でも、練習していたセリフよりも、ずっと自分の言葉だった気がした。
Cさんは、少し間を置いてから、静かにうなずいた。
「私も、同じ気持ちです。次に会うときは、もう『マッチングアプリで会った二人』じゃなくて、ちゃんとお付き合いしてる二人として会いたいです」
家に帰ってから、ワインの染みのことを思い出して笑った
デートを終えて、電車に揺られながら、私はさっきの出来事を何度も反芻していた。
用意していたセリフは、一言も使えなかった。何時間もかけて練習した言葉たちは、ワイングラスと一緒に、テーブルの上に消えていった。
でも、それでよかったのかもしれない。完璧な告白より、うろたえながらも自分の言葉で伝えたことの方が、Cさんには響いたようだった。
家に着いて、ソファに座りながら、私はひとり声を出して笑った。
53歳、大事な瞬間にワイングラスを倒す男。かっこよくはない。でも、なんだか自分らしいとも思った。
「これから」が決まっても、撃沈は終わらない
日記①から数えて、8ヶ月近く。ようやく「お付き合い」という言葉にたどり着いた。
ここまで、緊張で言葉が出なかった夜も、油断して自分語りをした夜も、会計でしくじった夜も、送信ミスで冷や汗をかいた夜もあった。今夜だって、大事な場面でワインをこぼした。
撃沈は、これからも続いていくのだと思う。それでも、一つひとつの不格好な瞬間の積み重ねが、ちゃんと今夜につながっていた。
「お付き合い」という言葉は、ゴールではなく、たぶん新しいスタートだ。ここからまた、新しい種類の撃沈が待っているのだろう。
でも今夜だけは、赤く染まったテーブルクロスのことを思い出しながら、笑って眠れそうな気がする。
不格好でも、伝わるものはちゃんとある
用意していたセリフは、結局一つも使えなかった。
それでも、伝えたかったことはちゃんと伝わった。取り繕った言葉より、うろたえながらの本音の方が、相手の心に届くこともある。それを、53歳になって、ワインまみれのテーブルクロスの前で学んだ。
53歳、バツイチ、撃沈12回目にして、ようやく「お付き合い」という言葉にたどり着いた夜。かっこよくは決められなかったけれど、これはこれで、悪くない夜だった。
次回の撃沈日記⑬では、正式にお付き合いを始めたCさんとの、新しい日常について書く予定です。付き合ってからも、撃沈は待っているのか——続きをお楽しみに。